人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。
人を教育するとか導くとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るのです。
人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短に述べれば人のご機嫌を取ればというくらいのことに過ぎんのです。
世の中には道義的に観察すると随分怪(け)しからぬと思うような職業がありましょう。
(中略)
道徳問題としてみれば不埒にもせよ、事実の上からいえば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、最も贅沢を極めているといわなければならぬのです。
道徳問題じゃない、事実問題である。
己のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というものは要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義をおかなければなりません。
人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。
既に他人本位であるからには種類の選択分量の多少すべて他を目安にして働かなければならない。
要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。
従って自分が最上と思う製作を世間に勧めて世間は一向顧みなかったり自分は心持が好くないので休みたくても世間は平日のごとく要求を恣(ほしいまま)にしたりすべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。
この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである。
就中最(なかんずく)も厭なものはいかな好きな道でもある程度以上に強いられてその性質が次第に嫌悪に変化する時にある。夏目漱石 - 「道楽と職業」 明治44年8月 明石において述
Maia Hirasawa - Boom!