前回は、江戸後期(1809年)樺太が島であることを突き止めた間宮林蔵(1780-1844)の話を紹介しました。

それから数十年後、薩摩藩士で若干14歳の少年が同藩の海外留学生に選ばれ、1865年渡英したのでした。(ちなみに1863年、5人の長州藩の若者が幕府の禁制を犯してイギリスに密留学したのが日本で始めてのイギリス留学とされています。その中のひとりが初代内閣総理大臣の伊藤博文です。明治維新に活躍していていた高杉晋作も自らイギリス留学を望んでいたのですが、諸般の事情から断念したとあります。当時、日本から帆船で130日かかったという記録も残っているようです。)

今日は、若き薩摩藩士が日本人として、初めてぶどう園経営者になったという話です。名前は長沢鼎(ながさわかなえ:1852‐1934)。ソムリエール8

イギリスから日本に武器商人として来ていたトーマス・グラバーが留学生を世話し、長沢はグラバーの家に引取られ、スコットランドのアバディーンの中学校で学ぶことになったのです。

(グラバーは蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に貢献した。造船の街・長崎の基礎をつくったことでも知られている。また、文献によっては単独でスコットランドに移って、グラバーが通っていたグラマー・スクールに学ぶという説もある。)

その留学も半ばで、薩摩藩からの援助金も底をついてしまい、「新生社」というキリスト教共同体を主宰するトーマス・ハリスと出会い、アメリカ・ニューヨークへ移り、森有礼・鮫島尚信ら5名ハリスに頼ったとあります。

ハリスは厳格な清教徒の結社を組織し、ぶどう園での労働との同志的生活を行わせた。nagasawa

明治元年維新後、日本で彼らの働きを必要とするとしてハリスは森・鮫島に帰国を勧め、長沢だけが残ったのです。

結果的に長沢はハリスに従い、カリフォルニア州サンタローザのぶどう園経営と新生社を引継ぎぶどう王といわれるほどの成功をおさめ、終生アメリカに留まり81歳の高齢で客死したのでした。

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今回、漫画ソムリエール8で長沢鼎の残したカリフォルニアのワイナリーとワインについて紹介されていました。

この話をきっかけに当時の人物や留学に関連することを文献やネットで調べていたら、ちょっとやそこらで書ける内容でないことがわかりました。

言えるのは、あきらかに今の日本人留学生と当時の留学生が違っていたことです。当時の留学は幕府に背く犯罪行為の時代ですから、本当に命を賭けて開かれた国を作るための情報を求めるという使命のもと、本当に辿り着けるかどうか分からない船に乗って出て行ったのです。

イギリスからアメリカに渡ったのも生活に余裕があったからではなく、ハリスという人物を頼らざるをえなかった背景があります。生活資金もそこをつき、薩摩藩から留学した一行の中には飢え死にした学生もいたそうです。

「新生社」というのは実は今でいうカルト教団だったそうです。でもそういうのも明日生き残れるかどうかわからない若者にとっては生き残る道だったのでしょう。

最終的にカリフォルニアの葡萄王といわれるほどの成功をおさめたとありますが、そうなるまでの忍耐と努力は想像を絶するものです。

開国を求めて留学した少年が異国の地で日本人として初めてワイナリーを作った話でした。

キアヌ・リーヴス - 映画『雲の中で散歩(1995)』から